jacksonフランス日誌

オランダ/フランスに留学。文化/言語/宗教/国際/など表現方法と思想と芸術と社会問題。慶應大/湘南ボーイ

フランス北部クラブ事情 (boîte de nuit )

今回はだれも必要のないだろうフランス北部のクラブ事情について書きます。笑。

 

jacksonが10ヶ月いたフランスの北部であるリール(Lille)という街は交通の中心でロンドンまでバスで2時間、アムステルダムまでバスで4時間、パリまでバスで3時間、ブリュッセルまで30分とまあまあ良いところにあります。

 

正直なんでここを選んだのか自分でも謎ですが笑。オランダにゆかりのある自分としてはベネルクス三国に近い方が安心できるという理由だけで選んでしまいました。

 

jacksonはクラブが好きでamsterdam時代にはクラブに毎夜繰り出していたわけですが、東京でもニューヨークでもまあ大都市ならそれなりのミュージックシーンは在ると思います。ところがどっこい、フランスってとんでもなくダサイミュージックシーンが繰り広げられていました。笑。

 

フランス北部の三大クラブ(といってもリール)を紹介します。

①smile club

  リール中心のsolférinoという繁華街にある大人気のクラブ。内装はかなり年期の入った工場のような感じで2階建てになっています。1階はmusique commerciale (商業音楽)で日本のよくあるクラブの音楽が流れています。2階は謎の80年代専門の箱に成っており、多くのグループがひしめき合っています(笑)悪くはないのですが内装にしてもDJにしても二流感は否めず、大都市のそれに比べるとひけをとりますが、まあみんなでわいわいするのは楽しいかなと思

います。ちなみにjacksonは行くところがないので毎週末友達とここに繰り出していました。

 

f:id:s11898ty:20180802232135j:plain

 

②Network

    Smile Clubに比べると内装はゴージャスで成金感があります。音楽はremixが多いですが商業音

楽の域を出ない感じです。しかしながら、フランス北部のmafiaが携わっている感が否めず(笑)かなりがらが悪いです。フランスのクラブの特徴としてはださい上にかなりドアチェックが厳しいという点があると思います。自分が白人の友達とアラブ系の友達と行った際にはアラブ人というだけで断られてしまいました。かなりショッキングですがフランスの実情ってこんなんなんですかね。。

 

f:id:s11898ty:20180802232223j:plain

③Magazine

 テクノが好きであればフランス北部ではここが一番おすすめと言えるでしょう。内装はかなりシックで、8割男ですがいい感じです。入場料は10くらいですが価値はあるでしょう。

 

次は南部に引っ越すのでフランス南部marseilleのやばいクラブにもせんにゅうしてみようとおもいます!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パリの俳優学校にて

政治学院での芸術政策の修士課程に備え、今年の夏は仏の俳優養成校である"cours florent”にて研修を受けてみることにしました(笑)

 

自分自身演技の経験は無に等しく、でも俳優になりたいなという思いは好くならからず昔からあったので笑、インスピレーションを得るために参加してみました。

 

jacksonが参加したのはstage de cinéma と stage de théâtre という映画と演劇の1週間ずつの研修でした。le cours florent は仏でも有名な俳優学校で基本的には高校卒業から入学できますが年齢層は様々。皆さんもご存知の一流演劇学校であるコンサバトワー(conservatoire)の試験に備えて入学する人もいるようです。でもこのstageは誰でも参加できる(但し500ユーロ)ので初心者の方にはおすすめです。

 

日本の演劇教育について知っている訳ではないので比較する事は難しいですが、自分が気付いた仏の俳優教育の特徴としては

 

①improvisation 即興練習が多い

   jackson の所属したクラスでは即興が多く練習に取り入れられていました。例えば、先生が「スピードデーティング」という課題を設定した後、男子が横一列に並んで女子に対応します。その際に、各男子はお題を与えられてその通りに即興で演じないといけません。自分の場合には fou-rire「笑いが止まらない人」で適当にやったら、bravoって感じでした笑。アジア人ってだけで特ですね。笑。

 

②モノローグが多い。

   二週間のスタージュ中自分は2つのモノローグをやりました。1つ目は精神的に参って窓から飛び降りちゃった男の子役。2つ目はロシア革命のときに農民のグループであるアンテリジョンチアの制度に疑義を抱いた青年役でした。フランス語だし最初はものすごく緊張しましたが、どうにかなりました!結局のところアジア人はフランスの俳優学校にほぼ皆無なので何をやってもexotique な演技だ!とだだ褒め(笑)。日本で煮詰まった俳優志望の方には正直良い環境ではと思いました。笑。

 

f:id:s11898ty:20180802224334j:plain

1ページ丸々担当しました。

 

③先生、ていうかタイムスケジュールがめちゃくちゃ適当笑。

  jacksonたちの先生は最初の二日はなかなか面白くてよかったのですが、あとの5日かんはごたごたでした(笑)。まずタイムマネジメント、15人のグループなのでそれぞれのscèneをやったらたしかに時間はかかります。だけどその時間配分がめちゃくちゃ、あるグループには2時間も使ったと思ったら自分には10分笑。このあいだずっと待っていなければならず、ある高校生の女の子は " je suis frustrée!!!!!!!!!!!!!!"(もう嫌!!!)と激怒しペットボトルを床にぶち負けました(笑)。フランス人のグループって必ずこういう問題起こりますね。。

 

そんなこんなですが、日本とはひと味違う経験いかがでしょうか?

 

f:id:s11898ty:20180802225210j:plain

クラスメートとcaféにて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フランス留学まとめ①

 

久々の投稿ですが、2018年9月からエクサンプロバンス政治学院の芸術庇護政策学科の修士課程2年目に進むことになりました。欧州の文化/芸術/哲学/政治についてもう一度自分の中で再考したいと思いブログを再開してみました!

 

もともと学部時代には慶應SFC国際法やらジェンダー学やら色々なことをつまみにつまんでやってきて国際政治の世界に飛び込んだ訳ですが、働いていた1年そしてフランス北部のリールでの1年を通して、自分が今この別に先端でもブームでもない欧州の「フランス」という国で何が学べるか考えました。

 

学部時代オランダに留学して頃にはいかに欧州の北部(スカンジナビアetc)が恵まれている環境か気付きませんでした。ここフランスではクラブやバーはアムステルダムのように特に洗練されていないし、パーティーのやり方はわかってない、ただ騒ぐだけ、マニフェスタションは多く学校はすぐ休講、アドミニストレーションはご存知のとおり世界最悪なご対応ですし(笑)

 

1年住んでみて、確かに「住みにくい」「住み続けたくはない」とは思いました(笑)

 

しかし、別に好きでもないこの国ですが、この国はよいしょよいしょで自らの感性を圧倒してくる事に気付きました。例えば、14 Juillet. フランスの建国記念日であるこの日はフランス全土でお祭り騒ぎ。特にパリのエッフェル塔前では巨大なスクリーンをつかってのスペクタクルが繰り広げられます。エッフェル塔からの花火は圧巻で、国民のナショナリズムに火をつけます。このスペクタクルは小国ではありえないことだと思います。

 

どの国ももちろん色々な人がいるし社会層や人種は様々ですが、特にこのフランスという国は「人による」という度合いが違う気がします。jacksonが最初にホームステイしたニースのレストラン経営のご家庭では "le chinois est parlé au Japon ? "(日本では中国語しゃべってるんでしょ?)といった質問を平気でしてきたかと思えば、政治学院のエリート達は本当に様々な事を知っている。

 

社会の分断が甚だしいこの国は、住みにくいのは確かに当たり前。だけどその分、人を圧倒的に変える独特すぎるフランス文化はあとをひくというか、人々の印象に残るものを創造する度量があるのではと気付き始めました。

 

 

f:id:s11898ty:20180802221136j:plain

 

 

 

ローマ

ブログの更新をもはや5ヶ月程怠っていて(笑)誰も見ている人がいないと思われますが、8月からの留学の記録をまとめてこれから報告させていただきたいなと思います。

f:id:s11898ty:20130810211608j:plain

さてさて、8/6に日本を発ち、まず最初に向かったのはローマ!日本を一年間離れることに対する不安とどきどきを感じつつ、アブダビ乗り換えでローマに到着いたしました!フィウミチーノ空港からはタクシーがぼったくられることが多々あるということを聞きかなり不安だったのですが、飛行機の中で知り合ったネイリストのお姉さんと意気投合w(しかも住んでるところが同じ市だったw)、二人で協力して、割り勘で(一人20ユーロ)でローマ市内に向かいました。

f:id:s11898ty:20130809213956j:plain

街につくとこの景色!ローマに来た!

f:id:s11898ty:20130809220250j:plain

f:id:s11898ty:20130813035643j:plain

 

 ローマに対して色々な期待はあった訳だけど、期待を裏切らない街だなとつくづく思いました。2日目からはホステル(papa germano)で知り合ったカナダ人女子と待ち歩きすることになりました。彼女(名前は忘れた)、HECスペインかなんかで経済政策を学んで、そっからカナダに帰る前に御旅行中らしいです。

 

 

The Growth of a New Japanese Culture in Russia

Even though Russia is geographically the closest nation to Japan, most Japanese regard Russia as a distant and mysterious country. Many Japanese think that Russians are unsociable, reticent of their views and secretive about militarily nuclearization. Most Japanese have a negative image of the country and its peoples. But in fact Japanese culture is highly popular in Russia, especially food, animation and language. Japanese culture and tradition has adjusted quite well within the Russian milieu, giving rise to a “new” Japanese culture.

 

Recently, the variety of food Russians eat has increased. The popularity of Asian cuisine has grown rapidly. Today Japanese cuisine especially dishes made from raw fish or “sushi” has gained in popularity. Many Japanese chain restaurants serving sushi such as Planet Sushi and Sushi Vera have opened their outlets in Moscow and Saint Petersburg. Within the last few years sushi has become an indispensable item in delicatessen sections of many Russian supermarkets. But the sushi Russians enjoy eating is quite different from the Japanese one. In Japan sushi is invariably made from raw eel, salmon, boiled crab paste, generally referred to as strange sushi or henteko-suhi. By habit Russians invariably do not eat raw fish. From cultural background, people do not eat raw fish so they made sushi in different shapes and sizes to make it more palatable.

 

Also the interior decor, menu and clientele of Russian sushi restaurants are quite different from that of Japanese sushi places. The atmosphere of a typical sushi restaurant in Russia is quite different from that of Japan. A typical Japanese restaurant has an informal style where the waiters wear traditional Japanese working coat called happi coat, the tables are made of Japanese cypress and menu from traditional Japanese paper called washi.  Compared to the dark interiors of a traditional Japanese sushi restaurant, Russian sushi restaurants such as Ninja are more like American fast food restaurants such as McDonald or Subway. People usually come to the restaurant alone or twosome, and they eat sushi while reading a book or newspaper. The Russian hospitality is quite good. The interiors of Russian sushi restaurants are quite clean, simple and highly modern. Seemingly Russian sushi bars are imitating the modern Japanese interiors rather than the traditional and ancient ones which are still popular in Japan today. About a decade ago Russian sushi restaurant usually used strange kanji character to epitomize their Japanese style but recently they have grown in their understanding of Japanese culture and customer.

 

Unlike some European countries, the Japanese boom in Russia is not just concerned with just the external aspects of culture but delves deep by understanding the Japanese business and work ethics. In 2010 the popularity of Japanese UNIQLO

marked a new interest in Japanese culture in Russia. As soon a UNIQLO opened in Moscow it became tremendously popular and the number of UNIQLO outlets increased. Russians also tried to follow some of the working principles of Japanese company operations. In Japan both flexibility and enthusiasm are seen as essential qualities of a successful stores manager in stores such as UNIQLO. Therefore the important staff of UNIQLO was trained for three months in Japan to study Japanese structure, system, and hospitality.

 

Many analysts predict that the recent Japanese boom in Russia will gain in popularity and become highly sophisticated. So companies cannot succeed in Russia by just selling Japanese products, they have to adapt them to suit the needs and sensibility of Russian people. Russians are now concentrating on understanding Japanese way of thinking and locate the essence of Japanese tradition. 

春の雪/奔馬/暁の寺/天人五衰

2年前タイに行った時、バンコクの仏教建築の観光の予習として三島の最後の四部作を読んだ。そのとき以来三島が好きで、一人でw静岡の三島記念館などにバイクでいったりしたんだけど、もう一度読み返したいと思って留学前に読んでみようと思う。特にお気に入りはこの四冊。

 

f:id:s11898ty:20130713194602j:plain

f:id:s11898ty:20130713194612j:plain

f:id:s11898ty:20130713194620j:plain

f:id:s11898ty:20130713194627j:plain

 

  

 多くの人の中には、三島がただの国粋主義者であり美を追求した作家だというイメージがあると思う。でも、自分が感じる三島の持つ要素は、日本人と性この2つに集約されると思う。

 まず、「日本」という感覚に関して三島は何か、ぼんやりという幻想というよりかは、その幻想を具現化するため手段として最終的にそこに固執するように到達したように思える。輪廻転生とか、国境も文化も性も超越した概念を意識していた彼にとって国家などどうでもように思える。当初自分も、なぜ三島がそこまで「日本」や「大義」にこだわり死んでいったのかはわからなかったし、なんとなく馬鹿げているなあとも感じた。しかし、彼が最後に到達したのはあくまでも自分が生まれ親しんだ、「日本」でああり、日本に固執することで、自分の存在を主張する意味合いがあった。

f:id:s11898ty:20130713212243j:plain

 その主張は、彼が基本的に「ナルシズム」を備えた人間だった、ということに関連していると思う。学習院時代、軟弱で暗い少年だったことにコンプレックスがあり、またギリシャ旅行時代に完璧な肉体をもつ彫刻に触れたことも、見せる為の肉体にこだわった由縁だと思う。彼の持つ根源的な寂しさがパフォーマーとしての三島を形作って行った。

  天人五衰の内容をすこしみてみたい。天人五衰とは天人が死ぬ時に生じる5つの兆候をさす。

 衣裳垢膩(えしょうこうじ):衣服が垢で油染みる

 頭上華萎(ずじょうかい):頭上の華鬘が萎える

 身体臭穢(しんたいしゅうわい):身体が汚れて臭い出す

 腋下汗出(えきげかんしゅつ):腋の下から汗が流れ出る

 不楽本座(ふらくほんざ):自分の席に戻るのを嫌がる

 春の雪から天人五衰の4部作では、主人公の親しい者が死に、それが次の作品で他の人物に輪廻転生するという構成になっている。途中で、主人公は自分の親しい者が次の者に転生しているということに気づき(同じ位置のほくろから)、天人五衰で、同じ位置にほくろのある港の子供を探し彼を養子にした。しかし、最終的にその子供が青年になり(結局彼は転生していなかった)主人公自身を傷つけ始めていく。

 三島が意図したかどうかはわからないが、そのほくろの描写は限りなくエロティシズムを感じさせるし、ほくろを「探す」「見る」「見られる」という所に彼のナルティシズムの発露を感じた。また、そのナルシズムは同性愛に結びついている。彼は同性愛を題材とすることが多々あったが、同性愛は直接的に美と結びついているという考えを社会に賦与した。同性愛のもつ悲劇的な結末を彼は身をもって体現していたのではないか(彼にとってもちろん性愛は生殖以上の意味合いをもっている)。

 

 

芸術と戦争

最近の考え事である戦争と文学と芸術の関連性について考えてみました。例えば、アウシュビッツや原爆を芸術品として描くことがどのような影響をもたらすかなどなど

 

 

f:id:s11898ty:20130713185002j:plain

アウシュビッツ

 

 個人的には、芸術が戦争等の歴史的事実を描くことはより長い時間の流れの中で捉えるべきではないかと思う。なぜなら、時が進むにつれて歴史的事実はより抽象化していき、最終的には芸術の方が存在感を増し、その芸術の方が未来の人に取ってはリアルに感じられると考えるからだ。また、芸術作品は数的に言えば、現代よりも多くの未来の人に接する運命にあり、より未来を見据えて芸術と戦争の関係性を捉えることが重要だと考える。

 

 例えば、日本の原爆を題材にしてみる。現在被爆された方々が生存しているが、それらの方々はそれらを題材にした芸術作品をまともには直視できない。また、周囲の人々や社会も現時点では「原爆」という事象を歴史的客観的に捉えており、芸術や神話であると思って捉える人は少ないと思う。

 しかし、今から例えば3000年たった後のことを考えてみたい。その時代には国や社会のシステム、人々の規範意識も完全に変わっているかもしれない。たとえ、核兵器の作り方、日本に原爆を落とされた理由、その時の国際情勢などが残っていたとしても、人々の目にはそれらの事実は抽象的に写ってしまうと思う。一方で、原爆を表現した文学や絵は3000年後も色あせることなく存在しており、そちらの方が現実性をもって人々の前に迫ってくるのではないだろうか。つまり長い時間を経ることによって、客観的であるはずの戦争などの情報が「抽象的」に見え、それらを表現した芸術作品の方がより「リアル」に見えてしまうのではということである。そして究極的には、歴史的事実が神話のようになり、人々は芸術や神話を通して事実を知ることになると考える。

 

 ここで、芸術を通して悲惨すぎる事実を知ることは、その悲惨な事実を後世に役立たせるという意味で正しいことなのかという疑問が生じる。確かに、原爆やアウシュビッツのような体験を芸術作品として描くことは言語表現上不可能で正確には伝わらないだろう。「言葉の主体がむなしいとき、言葉の方が耐えきれずに、主体を離脱する」という石原吉郎の主張も良く理解できる。しかし、悲惨であろうがなかろうが芸術を通して物事を表現することは常に不確かである。未来の人が芸術作品を通してその事実と向き合うためには、それがいかなる体験であったとしてもその当時に事象を芸術化する必要がある。芸術作品にすること自体により価値があるのではないだろうか。

 また一方で、先に述べたように客観的事実が抽象的なものになっていたとしても、その事実は「社会のシステム」としてその後残り続ける。例えば、人類は二度も悲惨な大戦を経験したが、その教訓は少なからず国際連合や民主的な国家の設立に結びついた。たとえ歴史的な事実が非常に抽象的なものとなったとしても、それらが社会に内在されている以上、芸術を通して過去の悲惨な事実を考えることを否定的に見る必要はないと考える。