jacksonフランス日誌

オランダ/フランスに留学。文化/言語/宗教/国際/など表現方法と思想と芸術と社会問題。慶應大/湘南ボーイ

芸術と戦争

最近の考え事である戦争と文学と芸術の関連性について考えてみました。例えば、アウシュビッツや原爆を芸術品として描くことがどのような影響をもたらすかなどなど

 

 

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アウシュビッツ

 

 個人的には、芸術が戦争等の歴史的事実を描くことはより長い時間の流れの中で捉えるべきではないかと思う。なぜなら、時が進むにつれて歴史的事実はより抽象化していき、最終的には芸術の方が存在感を増し、その芸術の方が未来の人に取ってはリアルに感じられると考えるからだ。また、芸術作品は数的に言えば、現代よりも多くの未来の人に接する運命にあり、より未来を見据えて芸術と戦争の関係性を捉えることが重要だと考える。

 

 例えば、日本の原爆を題材にしてみる。現在被爆された方々が生存しているが、それらの方々はそれらを題材にした芸術作品をまともには直視できない。また、周囲の人々や社会も現時点では「原爆」という事象を歴史的客観的に捉えており、芸術や神話であると思って捉える人は少ないと思う。

 しかし、今から例えば3000年たった後のことを考えてみたい。その時代には国や社会のシステム、人々の規範意識も完全に変わっているかもしれない。たとえ、核兵器の作り方、日本に原爆を落とされた理由、その時の国際情勢などが残っていたとしても、人々の目にはそれらの事実は抽象的に写ってしまうと思う。一方で、原爆を表現した文学や絵は3000年後も色あせることなく存在しており、そちらの方が現実性をもって人々の前に迫ってくるのではないだろうか。つまり長い時間を経ることによって、客観的であるはずの戦争などの情報が「抽象的」に見え、それらを表現した芸術作品の方がより「リアル」に見えてしまうのではということである。そして究極的には、歴史的事実が神話のようになり、人々は芸術や神話を通して事実を知ることになると考える。

 

 ここで、芸術を通して悲惨すぎる事実を知ることは、その悲惨な事実を後世に役立たせるという意味で正しいことなのかという疑問が生じる。確かに、原爆やアウシュビッツのような体験を芸術作品として描くことは言語表現上不可能で正確には伝わらないだろう。「言葉の主体がむなしいとき、言葉の方が耐えきれずに、主体を離脱する」という石原吉郎の主張も良く理解できる。しかし、悲惨であろうがなかろうが芸術を通して物事を表現することは常に不確かである。未来の人が芸術作品を通してその事実と向き合うためには、それがいかなる体験であったとしてもその当時に事象を芸術化する必要がある。芸術作品にすること自体により価値があるのではないだろうか。

 また一方で、先に述べたように客観的事実が抽象的なものになっていたとしても、その事実は「社会のシステム」としてその後残り続ける。例えば、人類は二度も悲惨な大戦を経験したが、その教訓は少なからず国際連合や民主的な国家の設立に結びついた。たとえ歴史的な事実が非常に抽象的なものとなったとしても、それらが社会に内在されている以上、芸術を通して過去の悲惨な事実を考えることを否定的に見る必要はないと考える。